隠れた美学

施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

それは、あなたの施しが人目につかないためである。

そうすれば、隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる。


               マタイ6章3節〜
世間はたいていの場合、逆な気がします。
「私はこんなにも、こんなことをしていますよ。」と誇示するほうが尊敬されるようで。
つい、善行を行うと胸を張ってしまいます。これは、究極の美学ではないかと思います。


人を裁かないようにしなさい。

そうすれば、神もあなた達をお裁きにならない。

人を罪人だと決め付けないようにしなさい。

そうすれば、神もあなた達を罪人だと決めつけられない。

人を許しなさい。

そうすれば、神もあなた達をお許しになる。

人に与えなさい。

そうすれば、神もあなた達にお与えになる。


ルカ6章37節
自分を悪く言われないために、人も悪く言わない、という見方もできます。
私は、自分にもできないことを、人に求めてはいけないと受け止めました。
私は簡単に人を傷つけたり、不愉快にさせます。
ただ、そのことを判っているという変な自信があります。
だから、告発者にだけはならないようにしたいと思っております


思い悩んだら

なぜ衣服のことで思い悩むのか。

野生の花がどうして育つのか、考えてみなさい。

働くことも紡ぐこともない。

しかし、栄華を極めたシェロモン王でさえ、

この花の一つほども着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、

神はこのように装ってくださるのだから、

まして、あなた達にはなおさらではないか。

だから、「何をたべようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと、

思い悩んではならない。御心に叶う生活を求めなさい。

そうすれば、これらのもの総て加えて与えられる。

             マタイ6章25節
この箇所は、服を作る仕事をしている私にとって、少々耳の痛いところです。
ただ、勝手に、おおらかに生きなさい、ということだろうと解釈しています。
つまらないことで悩まなくていいのだと、言われているような気がします。



どのような願い事であれ、あなた達のうち二人が地上で、

心を一つにして求めるなら、

天の父はそれを叶えてくださる。

二人または三人が私の名によって、集まるところには、

私もその中にいるのである。


                        マタイ8章9節〜
「あなたが祈れば」ではなく、「二人が心を一つにして求めれば」です。
私利私欲にしかならないことを、二人の人が心を合わせて求めることはあり得ないでしょう。
たとえ親子が祈ったとしても、子供の未来であったりします。
自分以外の人の上にも優しさを投げかければ、報いてくださるのでは、と思います。


平和という名の定義

ある人が羊を百頭持っていて、その中の一頭が迷い出たとすれば、

その人は九十九頭を残して、迷い出た一頭を探しに行かないだろうか。

もしそれを見つけたら、迷わないでいた九十九頭よりも、

そのことを喜ぶだろう。

そのように、これらの弱い者が一人でも滅びることは、

あなた達の天の父はお望みにならない。


            マタイ8章12節
この箇所は結構有名な言葉です。
私はこの言葉が好きです、というのは、神様も『出来の悪い子ほど可愛い』のかな?と微笑ましく思ってしまいます。

あなた達は、これらの小さな者達の一人をも軽んじないようにしなさい。


天国って?

主人は、1日につきデナリオン銀貨1枚の約束で、ぶどう園に送った。

また9時頃行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので

『お前たちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう。』
と言った。

それで、その人たちは出かけていった。

主人は、12時頃と3時頃にまた出掛けていき、同じようにした。

5時頃にも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、
『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。』と尋ねると、
彼らは、『誰も雇ってくれないのです。』と答えた。

主人は彼らに『お前達もぶどう園に行きなさい。』と言った。

夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、
『労働者達を呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで、
順に賃金を払ってやりなさい。』と言った。

そこで、5時頃雇われた人が来て、銀貨を1枚受け取った。
最初に雇われた人達が来て、もっと多く貰えるだろうと思っていたが、やはり銀貨1枚だった。

それで、受け取る時に不平を言っった。
『最後に来たこの連中は、1時間しか働いていません。
まる1日、暑い中を辛抱して働いたおれたちと、この連中を同じ扱いにするとは。』

主人は答えた。
『お前に不当なことはしていない。
お前は、私と銀貨1枚の約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。
私は、最後の者にも同じように支払いたいのだ。
自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか。
それとも、私が親切にするので、妬ましいのか。』

このように、後の者が先になり、先の者が後になる。


              マタイ20章1節〜
1度読んだだけだと、不公平かな、と思ってしまうかもしれません。
ここに書かれていることは、当然の不平と当然の答えだと思われます。
日給1デリオンは、当時、標準的な賃金だったそうです。
雇い主側にすれば、人が1日暮らすのに1銀貨かかるとすれば、
1時間しか働かなかったからといって、五分の一銀貨しか払わないのは、
気の毒だという思いで、払ったということでしょう。
神様は、総ての人に区別なく救いの手を差し伸べてくださるということなのでしょう。


試練の時

私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために

なだめの供え物としての御子を遣わされました。

ここに愛があるのです。


                       ヨハネ第一の手紙4章10節〜
あなた方の会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなた方を耐えることの出来ないような試練に

会わせるようなことはなさいません。

むしろ耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。


                          第一コリント人への手紙10章13節〜

緊迫した時代に、この言葉がどれだけ人々の心に届くのか疑問がないわけではありませんが、
できることなら信じていたい。


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