目標を見失いそうな時 |
神はどのような苦しみの時にも、私達を慰めてくださいます。 こうして私達も、自分自身が神から受ける慰めによって、 どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 |
第二コリント人への手紙1章4節〜 |
自分が辛い時というのは、殻に閉じこもってしまいがちで、周りが見えないことが多いように思います。 ただ、苦しみを経験した人は、人に優しくなれるというもの事実ではないでしょうか。 そんな人になりたいと思っています。 |
私達は、すでに得たものでもなく、 すでに完全にされているのでもありません。 ただ捕らえようとして、追求しているのです。 そして、それを得るようにとイエスが私を捕らえてくださったのです。 自分はすでに捕らえられたなどと考えてはいけません。 ただ、この一事に励んでいるのです。 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 イエスにおいて、上に召して下さる神の栄冠を得るために、 目標を目指して、一心に走っているのです。 |
ピリピ人への手紙3章12節〜 |
この箇所は、目標を見失った時に引用される箇所です。 人間は完璧ではないのだから、少しでも近づこうと前向きに生きなさいと、 背中を押されているような気がします。 |
泣いている者の幸福 |
富んでいるあなた達は不幸だ。 もう慰めを受けているから。 今、満腹しているあなた達は不幸だ。 飢えるようになるから。 今、笑っているあなた達は不幸だ。 悲しみ泣くことになるから。 |
ルカ6章24節 |
富んでいる人が不幸だ、などといわれると、戸惑ってしまいます。 もちろん、イエスは富そのものが悪いと言っている訳ではありません。 只、多くの場合、人は苦しい時、物質的な物を求めようとします。 お金を持てば持つほど、そのお金を他人の為に使おうとはしなくなるのではないでしょうか。 現状に満足すれば、神の存在など薄れてしまいます。 その思い上がりの怖さを言っているのだと思います。 満腹の人が次に出会う変化は、空腹で、 一生笑って暮らせるわけではないから、泣くこともある。 持つものは、いつか失くし、無いものはいつか得られる。 私達はこの変化の繰り返しで人生を生きているのだということでしょうか。 |
罪についての定義 |
どんなものでも、外から人の体に入るものは人を汚すことはできない。 かえって、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。 人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出るだけなのだ。 人から出てくるものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から悪い思いが出てくる。 みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、妬み、 悪口、傲慢、無分別、など、 これらの悪は、人の中から出てきて、人を汚すのである。 |
マルコ7章14節 |
もちろん、イエスは感染病を、口に入れても何でもないと言われたわけではありません。 当時のユダヤ人社会には細菌学の知識もないし、食物上の禁止規則を持っていました。 私達が穢れたことをするのは、他から穢れを受けたせいではなく、 自分の心に原因があるということを言われた言葉だと思います。 人は人を傷つける生き物だから、気持ちを引き締めなさい、と言われている気がします。 |
愛ってなんですか? |
愛は寛容であり、愛は親切です。 また人を妬みません。 愛は自慢せず、傲慢になりません。 礼儀に反せず、自分の利益を求めず、 怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜びます。 すべてを我慢し、すべてを信じ、 すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 |
第一コリント人への手紙13章7節〜 |
ここでの「愛」とは「アガペー」と呼ばれ「慈愛」を意味します。 例えば親が子に対する無償の愛のことです。 男女間の愛では、このように思うことは難しいでしょうね。 |
奢りを捨てて |
兄弟愛を持って、心から互いを愛し合い、 尊敬を持って、互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、 かえって低い身分の者に順応しなさい。 自分こそ知者だなどと思ってはいけない。 |
ローマ人への手紙12章10節〜 |
人は比べることの好きな生き物だと思います。 上を見ればキリがなく、 つい下を見て、自分を慰めてしまう。 本当は比べることなど出来ないのに・・・と思いつつ。 |